寺田寅彦博士の銅像は高知市追手筋二丁目1番1号「オーテピア」の東北角にあります。
銅像建立の経緯については、寺田寅彦博士の生誕150周年を祝し、NHKの朝ドラ化を願う会会長の宮英司氏による小冊子「寺田寅彦銅像物語」(pdf)に詳しく書かれています。

●資料1(銅像台座の言葉)(まえ)

  ねえ君 ふしぎだと思いませんか

  寺田 寅彦


(みぎ)

  天災は 忘れられたる頃 来る


(ひだり)
(ローマ字)

  好きなもの いちご コーヒー 花 美人

  ふところ手して 宇宙見物
●資料2(銅像建立記)(うしろ)
建 立 記

寺田寅彦生誕140年の記念すべき年
南海トラフ巨大地震への警鐘を鳴らし 科学する心の
大切さを伝えるために 新しい図書館「オーテピア」の
開館に合わせ 母校高知追手前高校(旧高知県尋常中学校)
を臨むこの地に銅像を建立できたことを
ともに喜び合いたいと思います
ご協力いただいた多くの方々に心からお礼を申しあげます

2018年7月24日
制作  大野 良一
題字  依岡  稔 (紫峰)
建立  寺田寅彦の銅像を建てる会
      会長  青木 章泰
●資料3(銅像説明板)寺田寅彦
(1878年11月28日~1935年12月31日)

 寺田寅彦は、明治11年(1878)東京生まれの物理学者で、「天災は忘れられたる頃来る」の警句を残しています。
寅彦の父は、坂本龍馬と同時代に生きた土佐藩の郷士で、明治時代には陸軍会計官となりました。寅彦は、3歳の時に大川筋の実家に帰り、少年時代を過ごしました。江ノ口小学校、高知県尋常中学校(高知追手前高校)を経て、熊本の第五高等学校に入学。そこで田丸卓郎に物理学を、夏目漱石に英語と俳句を学び、東京帝国大学時代には正岡子規とも知り合いました。

 寅彦は生涯に200編余りの物理論文を発表しました。その研究スタイルは、日常の諸現象を徹底的に分析し、寺田物理学ともいわれる独自の領域を切り拓きました。その過程で、「ラウエ映画の実験方法及其説明に関する研究」で学士院恩賜賞を受賞し、文化切手にもなりました。また、一方で「冬彦集」「藪柑子集」「萬華鏡」「続冬彦集」「柿の種」「物質と言葉」「蒸発皿」「触媒」「蛍光板」「橡の実」などの随筆等も残しています。さらに俳句、油絵、オルガン、バイオリンなど幅広く才能を発揮しました。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称する人もいるくらいです。恩師・夏目漱石とのつながりも深く、「吾輩は猫である」の水島寒月は寅彦がモデルでした。

 「ねえ君 ふしぎだと思いませんか」は、寅彦が学生や若い研究者たちに折に触れて語りかけた言葉で随筆等にも登場します。寅彦は、少年期を大高坂山の緑と清らかな江ノ口川に代表される、美しく魅力あふれる土佐の豊かな自然の中で過ごしました。この体験が生涯を通じ、心の糧となったのです。後年、研究室で「科学者になるためには自然を恋人としなければならない」と語った寅彦は、科学者としての鋭い目と随筆家としてのしなやかな心を自然の中でじっくりと育んだのでしょう。
 
 私たちは、寺田寅彦生誕140年の記念すべき年に銅像をこの地に建立できたことをともに喜び合いたいと思います。「オーテピア」には多くの関連資料があります。今後は、寅彦の教えに学びつつ地図を参考にして、近隣に残るゆかりの地を巡ることをお奨めします。

2018年7月24日   
                    寺田寅彦の銅像を建てる会 
●資料4(銅像募金趣意書)平成26年9月吉日
寺田寅彦の銅像建立について
        
寺田寅彦の銅像を建てる会
会長 青木 章泰

 寺田寅彦は1878年(明治11年)11月28日に東京市麹町区平河町3丁目(現在の東京都千代田区)に、父寺田利正、母亀の長男として生まれました。(父寺田利正は坂本龍馬と同時代の郷士であり、井口事件等を通じて交流もあった人で、明治時代には陸軍会計官を務めました。)寅彦には姉が3人いて、4人兄弟の末っ子でした。1881年(明治14年)3歳の時に高知市大川筋の家に一家とともに帰り、江ノ口小学校を経て高知県尋常中学校(高知追手前高等学校)から1896年(明治29年)に熊本の第五高等学校に入学しました。そこで、夏目漱石に英語と俳句を学び、田丸卓郎に物理学とバイオリンの指導を受けました。そして、1899年(明治32年)東京帝国大学理科大学物理学科に入学しました。その頃、夏目漱石を通じて正岡子規と知り合います。(なお、「吾輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八は、寅彦がモデルであったと伝えられています。)

また、1903年(明治36年)大学院に入り、実験物理学の研究を始めました。ここでは、音響学や潮汐の副振動など振動・波動に関する研究を行い、磁気学に関する論文を書きました。また、この頃から「ホトトギス」に「団栗」「龍舌蘭」「花物語」などの小説を発表しています。1904年(明治37年)には東京帝国大学の講師となり、後進の指導にあたりました。1908年(明治41年)には論文「尺八の音響学的研究」で理学博士となります。翌年には助教授となり、その年にドイツへ留学し、フランス、イギリス、イタリアなど各地で地象物理学について調査しています。1911年(明治44年)に帰国し、1916年(大正5年)に教授となります。1917年(大正6年)には「ラウエ映画の実験方法及其説明に関する研究」で学士院恩賜賞を受けました。その他に、航空研究所員、理化学研究所員、帝国学士院会員、地震研究所員などを務めました。


 博士の研究と興味・関心は非常に広汎で、ほとんど物理学のすべての領域にわたっています。その論文は250編に達しています。その内容は地震学、津波、海洋学、気象学、火災学、航空船の爆発、電気のスパーク、渦巻き、砂層の崩壊、ガラスの割れ方など災害、地球物理学に関するものを始め、椿の花の落ち方、生物の縞模様など、生物物理学といえる範囲にまで及んでいます。このように、日常身辺の諸現象を対象としてあくまで具体的に分析し、その間に何らかの法則性を見出そうとするところに所謂「寺田物理学」の特質があるといえます。文学や随筆においても同様の手法が用いられ、独創的な着想、科学的な追究、警抜な結論などで日本文学の中に独特の境地を打ち立てました。それは、地震や災害等を題材にした随筆(筆名は吉村冬彦)を頂点とする「寺田文学」に結実しています。また、俳人としても松根東洋城らと晩年まで連句をつくりました。その他、油絵、水彩画、ピアノ、オルガン、バイオリン、映画批評など非常に幅広く才能を発揮しました。ある意味で「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも言える人だったのではないでしょうか。門下生に中谷宇吉郎、藤原咲平、宇田道隆ら英才が多くいます。著作は「寺田寅彦全集」(30巻)に収められています。また別に論文を収めた科学篇6巻があります。
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 「天災は忘れた頃にやってくる」は2011年(平成23年)の東日本大震災の際にも、何度も引用された言葉であるばかりでなく、今日の日本に改めて大きな警鐘を鳴らし続けています。また、東日本大震災以降、博士の著書が相次いで復刻出版され、静かなブームとなっています。こうした機運は、日本全体が博士の考え方を必要としていることに他なりません。

 日本は、この未曽有の東日本大震災を経験し、南海トラフ巨大地震を始め、各地で予測される新たな震災等に立ち向かわなければなりません。こうした折、『天災は忘れた頃にやってくる』という言葉と永遠の警告を残してくださった寺田博士ゆかりの地・高知から全国へ、この思想を改めて発信する必要性を感じるものであります。また、未来の日本を託す子どもたちに、博士が残してくださった「科学する心」をしっかりと引き継いでいく必要があると考えます。そのためにも、博士がよく呟かれたという「ねえ君、不思議に思いませんか?」を彷彿とさせるようなモニュメントが必要だと思うのです。さらには、高知に寺田寅彦博士が生きていたことを後世に伝えていく使命感を感じています。

 私たち「寺田寅彦の銅像を建てる会」に集う者は、こうした話し合いを重ねたのちに、多大な業績を残された寺田博士を顕彰し、あとに続く郷土の後輩たちに改めて博士の偉大さを知らしめるために、博士の銅像を建立し、高知市に寄贈して、現在建設が進められている新図書館(前高知市立追手前小学校敷地)の敷地内に設置していただこうと考えるに到りました。ご賛同くださる皆様方のお力をお借りして、一日も早く実現したいと考えています。