●えっ、どうしてこの2人が…? 意外なつながりを解説します。 |
「寺田寅彦と坂本龍馬」 宮 英司 寺田寅彦(1878~1935)と坂本龍馬(1835~1867)は、生きた時代が異なっている。しかし、この2人には意外なつながりと共通点がある。 寺田寅彦の父・寺田利正(1837~1913)は、坂本龍馬と同時代を生きた郷士である。しかも、土佐勤王党結成に繋がったとも言われる「井口村刃傷事件」(永福寺門前事件)の当事者・宇賀喜久馬は、寺田利正の実弟である。 * 文久元(1861)年3月4日夜、小姓組・山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、節句の宴会の帰りに井口村の永福寺の門前で郷士・中平忠次郎と肩がぶつかる。中平は謝罪し、立ち去ろうとしたが、相手を郷士と気づいた山田は酒の勢いもあり、相手を罵倒し口論となる。そして、逆上した山田は抜刀し、中平も応戦する事態となる。 中平に同行していた宇賀喜久馬は、中平の兄・池田寅之進にこのことを急報し、2人は現場へ駆けつけるも、中平は殺害された後であった。しかし、近くの小川で刀を洗い、喉の渇きを癒している山田を発見した池田は背後から袈裟懸けに斬りかかって山田を殺害、近所の家から提灯を借りて現場に戻ってきた益永をも殺害した。(後刻、上士達の遺体は山田家に、郷士の遺体は池田家に引き取られた。) 翌朝、山田家には上士達が、池田家には郷士達が集まり、一触即発の危機を迎える。この時、郷士側に坂本龍馬も参加していたと伝えられている。ただ、最終的には、この危機は池田寅之進と宇賀喜久馬の切腹をもって終結した。また、宇賀喜久馬の切腹に際し、介錯をしたのが実兄の寺田利正であった。 事件後、土佐藩は山田の父・新六を謹慎処分としたが、弟に家督相続を許し、一方、益永家と宇賀家は断絶処分、中平家と池田家は格禄没収の処分がなされた。この処分に郷士側の不満が募り、半年後の「土佐勤王党」結成へと雪崩を打っていったと言われている(こうした事件の経過については、高知出身の芥川賞作家・安岡章太郎の小説『流離譚』に詳しく描写されている)。 * ところで、寺田家と坂本家の意外なつながりとして、もう一つあげておきたいことがある。それは、龍馬の継母・伊與の実家である川島家とのつながりである。龍馬は母・幸を11歳の時に喪った。継母・伊與は川島家に嫁いだ後、未亡人となっていたが、父・坂本八平のもとへ再嫁してきた人である。その後、種崎の川島家には、龍馬は姉・乙女と船で再三遊びに行ったとされ、当主・川島猪三郎(「ヨーロッパ」とも呼ばれた海外通)から万国地図を見せてもらったという逸話も残されている。また、継母の伊與が龍馬を育てるうえで果たした役割についても再評価が進んでいる。さらに、龍馬の最後の帰郷となった慶応3(1867)年9月下旬には、龍馬が川島家の隣の中城家に潜伏し、土佐藩に1,000挺のライフル銃を届けることとなった(この時、龍馬が潜伏した中城家の離れが当時のまま保存されている。TV「ブラタモリ」でも紹介された。この際、雨漏りも発見されたとかで、行政による早期の修復・管理が期待されるところである)。 この川島家に、寅彦の二番目の妻・寛子の姉(敏子)が嫁いでいる。寛子はこの姉を最も頼りにしていたという。一番上の姉・彪は龍馬の同志・甲藤馬太郎の次男・春海に嫁ぎ、二番目の姉・敏子は川島猪之助に嫁いでいた。 併せて、最初の妻・夏子の療養地としての仁井田・種崎にも注目しておきたい。仁井田は夏子の療養地であると同時に、長女・貞子の出生地でもあった。また、寅彦が手結から海岸線を歩いて夏子に密かに会いに来たというロマンの場所でもあった。このように、龍馬と寅彦には井口村刃傷事件だけでなく、川島家とのつながりを中心とする仁井田・種崎・桂浜との深い縁があったことを知っておきたい。 また、「海」に関しては「世界の海援隊」をつくろうとした龍馬に相応しいキーワードとなる。嘉永6年(1853年)龍馬が最初に江戸へ剣術修行に出向いた時、ペリーの率いる黒船4隻の来航と出くわしている。海に開けた土佐で育った龍馬であったが、この黒船を間近に見た衝撃は計り知れないものがあったことだろう。龍馬がこの時に黒船と遭遇しなかったら、彼の人生は違ったものになっていたのではないかという人もいる。時代が進んで、大政奉還が成ったあと、新政府役人の名簿を作って西郷隆盛たちに見せた時、龍馬はあえて自分の名前を入れていなかった。西郷が「坂本さん、あんたの名前が落ちている。」と指摘した時、「窮屈な役人になるのは性に合わん。」と答え、続けて西郷が「では、何をするのか。」と尋ねるので「世界の海援隊でもやりましょうかのう。」と答えたという(この話は史実ではなく、龍馬の生き方を象徴した創作だと言われているが…)。 寅彦の教え子の宇田道隆(1905~1982)は、海洋物理学という新領域を切り拓いたことで特筆される。海洋の潮目の研究に誘うこととなったという寅彦との関わりも深い。宇田道隆の育った高知市小高坂は、寅彦の家のある大川筋(小津町)とは400~500メートルほどしか離れておらず、この師弟は27歳の年齢差はあったが、高知城の西と北で、同じ自然環境の中で子ども時代を過ごしている。 大正6年(1917年)7月、寺田博士は帝國学士院恩賜賞を受賞した。その後、帰郷した折、7月31日に朝倉小学校で子どもたちに「理化学進歩の現状」について1時間30分の講演をしている。続いて8月12日に母校の高知一中(高知追手前高校)で「物理学の基礎としての感覚」という講演をした。壇上のテーブルに置いたコップの水のことから話しはじめ、低い声で物理学の基礎を説いた。生徒の中で伸びあがるようにして聞いている一年生がいた。少年はその話で物理学者になりたいと考え、東大に入ると同時に寅彦を訪ねて門下生となった。世界的な海洋学者となった宇田道隆である。 次に「北海道」をキーワードとして考えてみたい。龍馬は北海道へ渡る計画を真剣に考えていたとされる。一説では、次々と命を落とす仲間を北海道へ送り込むことで守ろうとしたとも言われている。この夢は、龍馬自身は達成できなかったが、龍馬の姉・千鶴の子である坂本直寬(龍馬の甥)が、まるで叔父になり代わるかのように実現してゆくことになる。直寬は自由民権運動の三大論客として全国に知られた活動家であった。明治18年(1885年)にはキリスト教の洗礼を受け、政治と伝道の両面で活躍。明治29年(1896年)44歳の時、直寬は北海道に渡り、北見のクンネップ原野を視察、北光社を設立して社長となり、明治31年(1898年)家族とともに渡道(北見開拓については、屯田兵よりも先に北光社の人々が入ったといわれており、その縁で高知市と北見市は姉妹都市となっている)。晩年には政界と絶縁して牧師となり、軍隊伝道、監獄伝道を繰り返し、開拓と伝道の日々を過ごしている(監獄伝道では、一晩の説教で百人以上の入信者を生み出すという離れ業を演じたとの伝説が残っている)。 寅彦の弟子に中谷宇吉郎(1900~1962)がいる。中谷は東京帝国大学理学部物理学科に入学し、寺田の教えを受け、実験物理学を志している。卒業後は理化学研究所で寺田研究室の助手を務め、英国留学後に北海道大学へ奉職した。そこで、世界初の人工雪の製作に成功している。気象条件と結晶が形成される過程の関係を解明した。他にも着氷防止の研究など、低温科学の分野で大きな業績を残した。この中谷宇吉郎の評価は絶大なものがあり、朝日新聞社が2000年に実施した「この1000年の優れた日本の科学者」の読者人気投票で第6位となり、師匠の寺田に大きな差をつけた(寺田14位)。私たちが図書館オーテピア前に寺田寅彦像を建設する起爆剤となった人でもある。寺田の多くの弟子のなかでも、随筆をたくさん残し、「雪は天から送られた手紙である」という名言を残したことはよく知られている。2015年12月から2016年1月にかけて高知県立文学館において、「親愛なる寺田先生 ~師・寺田寅彦と中谷宇吉郎展~」が開催された。出身地である石川県加賀市には「中谷宇吉郎雪の科学館」が設立され、雪の結晶を模した六角形の建物が立っている。(こぼれ話だが、北海道の六花亭に「ウキチ」という菓子作りを依頼し、一度だけ作られたことがあるという。この六花亭の花柄包装紙を描いたのは山岳画家の坂本直行。龍馬の甥の坂本直寬の孫にあたる)。 最後に、2人の「師匠」について述べてみたい。 龍馬と勝海舟との出会いは、龍馬が勝海舟を斬りに行ったものの、海舟の開明思想に感化されて、その場で弟子入りを懇願したということになっている。実は、龍馬がお世話になった修業先の師匠・千葉定吉が福井藩の剣の指南役であったので、福井藩の松平春嶽侯へ紹介をしたようだ。そして春嶽侯が重用していた横井小楠を紹介するとともに、勝海舟への紹介状を持たせたというのが真相だろうか。いずれにしても、これは「世紀の出会い」である。大きな見方をすれば、龍馬が勝海舟と出会い、勝から西郷隆盛を紹介されることで日本の歴史が大きく動くことになったと考えることもできるからだ。なぜなら、龍馬と薩摩藩との繋がりが、亀山社中→薩長同盟→大政奉還へと発展していくとも考えられるからだ。龍馬は姉・乙女への手紙で「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられ候(中略)すこしエヘンニかをしてひそかにおり申候。」(エヘンの手紙)と海軍操練所の開設のために働いていることを自慢している。いずれにしても、あこがれであった海の世界へ突き進む龍馬のその後は勝海舟抜きには語れない。 夏目漱石は明治29年(1896年)4月、松山中学から熊本の五高へ赴任した。何という巡り合わせか、寅彦はその年五高へ入学して、1年生の時から漱石に英語を学んだ。2年生の学年試験が終わった頃、同郷の友達で試験に失敗した仲間のために点数をもらいに夏目家に出向いたのが寅彦の用件であった。その旨を伝えた後、寅彦は「俳句とはいったいどんなものですか」という初歩的な質問をした。漱石は「俳句はレトリックを煎じ詰めたものである。扇の要のような集中点を指摘し、描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものと思えばよい。花が散って雪のようだといったようなありふれた描写を月並みというんだ。『秋風や 白木の弓に つる張らん』といったような句は良い句だよ。俳句はいくらやってもできない人もあるし、はじめからうまい人もある。」と答えたという。 この点数をもらわねばならなかった一人が竹崎音吉さんであったことは、昨年の講演会で孫の竹崎邦博さん(奈半利町)から聞かせていただいたことだった。寅彦と夏目漱石の出会いも「世紀の出会い」であった。これ以降、寅彦は俳句、随筆、小説等々とそれまでになかった活動を展開していく。事実、漱石は「学問芸術の何れの方向に進んでも、寺田は将来必ず一流になるだろう」と語り、寅彦は「先生からは色々のものを教えられた。自然の美しさを自分自身の眼で発見することを教えられた」と語ったという。そういう意味でも、夏目漱石は寺田寅彦の一生に最大の影響を与えたお師匠さんであったといえるだろう。漱石も多くの弟子の中で、寅彦だけは一目おいていたように思う。 ところで寺田家では井口村刃傷事件(永福寺門前事件)はタブーであったらしい。利正も寅彦も、自身の口からこの事件について語ることは決してなかったと言われる。家族にも全く語っていなかったという。わずかに以下の二つの文の中に事件の片鱗について触れているのみである。 寺田寅彦は「写生紀行」(大正11年1月発表)の中で次のように述べている。 「昔は命を的にしなければ、うっかり誤ってでも人の足も踏めず、悪口も無論いわれなかった。私の血縁の一人は夜道で誤って突き当たった人と切り合って相手を殺し自分は切腹した。」そして、俳誌「渋柿」に連載した「無題(三十七)」の中では次の一文(大正11年4月発表)がある。「安政時代(…本当は文久年間、わざと間違えたのだろうか…)の土佐の高知での話である。刃傷事件に坐して、親族立会の上で詰腹を切らされた19歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失心しようとした。居合わせた人が、あわてて其場にあった鉄瓶の湯をその老媼の口に注ぎ込んだ。老媼は、その鉄瓶の底を撫で回した掌で、自分の顔をやたらと撫で回したために、顔中一面に真黒い斑点が出来た。居合わせた人々は、そういう極端な悲惨な事情の下にも、やはりそれを見て笑ったそうである。」 しかし、寅彦は師・漱石には語っていたらしい。漱石は、その話を『それから』(明治42年6月~10月発表)の中で幕末の兄弟の話として取りあげている。夏目漱石「それから」(直記18歳、誠之進17歳) 「その日は何か祭のある折で、市中は大分雑踏してゐた。二人は群衆のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする角で、川向ひの方限りの某といふものに突き当つた。此某と二人とは、かねてから仲が悪かつた。其時某は大分酒気を帯びてゐたと見えて、二言三言言ひ争ふうちに刀を抜いて、いきなり斬り付けた。斬り付けられた方は兄であった。やむを得ず是も腰の物を抜いて立向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。黙つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺してしまつた。 其頃の習慣として、侍が人を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で家へ帰つて来た。父も二人を並べて置いて順々に自分で介錯する気であった。所が母が生憎祭で知己の家へ呼ばれて留守である。父は二人に切腹をさせる前、もう一遍母に逢はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ母を迎にやつた。さうして母の来る間、二人に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図愚図してゐた。 (漱石は兄弟が切腹し、父が二人を介錯するというふうにストーリーを展開させなかった。弟子へのいたわりであったろうか。…縁辺の有力者が家老、藩主に助命を嘆願して二人の命は助かるのである。) 兄弟はしばらく一間のうちに閉じ籠つて、謹慎の意を表して後、二人とも人知れず家を捨てた。三年の後兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。 坂本家は高知城西側の高知市本丁筋、寺田家は高知城北側の高知市江ノ口(寿庵屋敷)から大川筋と、郷士でありながら郭中に間近な場所に居を構えることができていたということにも注目しておきたい。つまり、坂本家の表側・才谷屋は豪商であったことが知られているし、寺田家も江ノ口に家を構えていたということは郷士のなかでも、ある程度力のある家庭に育っていたとみることができるのではないだろうか。後に寺田家は、利正が陸軍・会計官として栄進し、大川筋にあった元上士の屋敷を購入して、移り住むこととなる。 寺田寅彦の語録にはいくつかある。 「天災は忘れられたる頃来る」が有名だが、2018年7月に完成した寺田寅彦像に彫り込まれた「ねぇ、君ふしぎだと思いませんか」も大切な言葉だ。学生や若い研究者たちによく声をかけたと伝わっている。“どうしてこうなるのだろう”とか“なぜだろう”という素朴な疑問を持ち続ける姿勢の大切さを教え続けた。 坂本龍馬もいくつか言葉を残している。 先に述べた「エヘンの手紙」もそうだが、乙女姉さんへの手紙をはじめ140通ほどの手紙が確認されている。有名なのは「日本の洗濯」という発想や「新国家」という表現に集約されるかもしれない。そして、意外に思われるかも知れないが日常的に和歌をたしなむ時間を持っていたらしい。 湊川にて … 「月と日の昔をしのぶ湊川流れて清き菊の下水」 … 遠い昔、楠木正成が後醍醐天皇のために、死ぬとわかっていながら戦ったことに思いを馳せて、湊川の岸辺に立つと(天皇への忠義の志が菊水の流れとなって今も湊川を流れており)その流れは清らかな菊が下水になっているという気持ちを詠んだものと思われる。●寅彦の歌 好きなもの いちご コーヒー 花 美人 ふところ手して 宇宙見物 ●龍馬の歌 世の人は われを何とも 言わば言え わがなすことは われのみぞ知る コーヒーと宇宙を「好きなもの」という同じ土俵にのせて歌うという豊かな発想に人生が広がってゆくような可能性を感じる。それにしても、いちごには目がなかったらしい。クリームをかけ、砂糖をまぶして食べたという。体調を崩しても、いちごとコーヒーと、それにタバコもやめなかったと伝わる。片方で「X線結晶学の元祖」という称号を得ながら、それにこだわらず藤の実の意外な動き、金平糖のツノのでき方、もっと言えば植物も動物もありとあらゆるものに関心を示したうえで文章に結実させ、文理融合を実現していった。まさに稀有の人だという他はない。ノーベル賞をもらい損ねた話や二人の奥様を亡くしたことなど残念なことなどもたくさんあったが、子どもたち向けに「科学への招待」ともいうべき多くの随筆を残すなど、その業績は計り知れないものがある。高知オーテピア図書館前に創った寺田寅彦像だけでは後世への認知度はまだまだ不足している。生誕150周年(2028年)に向けて、これから何ができるかを会員のみなさんとご一緒に考えていきたいと思っている。 龍馬には辞世の句などないが、この歌は彼の生きざまを象徴的に表現している。日本を思い、日本を洗濯し、新国家を目指した33年の生涯は、精いっぱいの人生であった。その信じる道を駆け抜けたすばらしい人生であった。薩長同盟の締結や大政奉還への側面的支援などに縦横無尽の活躍をした。ただ、新しい国家の夜明けを見ずして亡くなったためか、また新政府で活躍できなかったためか…、歴史学習における評価は高くない。その証拠に小学校の学習指導要領の歴史学習で例として挙げられた42人の人物の中に彼の名前は記されていない。同時代に活躍した「勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、陸奥宗光、板垣退助等々」が列挙されているにも関わらず…である。史料としても「薩長同盟の裏書」が焦点化されるだけで、歴史の転換点で活躍した割にはあまり評価されていない。数年前には「坂本龍馬の名前が歴史教科書から消える?!」との報道もあったことだった。こうした雑音を打ち消して、歴史愛好家における彼の人気は不動のものがある。今年は龍馬脱藩160年。また新しい角度から龍馬に視点をあてることのできる取り組みを続けていきたいものである。 二人のことをいろいろと書いてきたが、本当の共通点は、家族からの愛情いっぱいに育ったことだと思う。寅彦は、寺田家にとっては姉3人の4番目の子ども。龍馬は兄1人、姉3人の5番目の子ども。2人とも末っ子であり、大事に育てられたことだろう。病弱であった寅彦のために両親が小津神社へ寄進した話や、泣き虫であった龍馬を乙女姉さんが鍛えあげた話などはその代表的な逸話であろう。あとは土佐の豊かな自然に育まれたという共通点だろうか。 「寺田寅彦記念館友の会」と「坂本龍馬記念館・現代龍馬学会」という二つの会に在籍している。古い名簿に眼を通していて気がついたが、数年前に他界された永國淳哉さんもそうだったらしい。お元気であったら、いろいろ教えてもらえただろうにと残念に思う。ともかく、今後においても2人の歩みを辿っていこうかと考えている。先輩諸氏のご指導を賜りたい。 (文中は敬称略です。) (参考文献) 「寺田寅彦の風土」 山田一郎 著 「寺田寅彦~妻たちの歳月~」 山田一郎 著 「寺田寅彦覚書」 山田一郎 著 「『藪柑子集』の研究~続寺田寅彦覚書」 山田一郎 著 「寺田寅彦」 宇田道隆 著 「寺田寅彦 その世界と人間像」 太田文平 著 「小・中学生のための坂本龍馬物語」 高知市教育委員会 編 「龍馬のすべて」 平尾道雄 著 ( CM ) 「寺田寅彦博士の生誕150年を祝し、NHKの朝ドラ化を願う会」が活動を始めました。別添の「署名用紙」へご賛同いただける皆様の署名を賜り、寺田寅彦記念館友の会(高知市小津町4-5)(電話 088-873-0564)あてご送付くださると幸いです。 |