「土佐有楽(とさうらく)」のこと
宮 英司
「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」―明治30年の夏目漱石の句である。当初から、恩師のこの句を研究していた寺田博士は、漱石没後15年も経過した昭和6年に、改めてこの句を研究している。椿の落花の徹底的な観察、椿の模型を作っての落下実験、…。そして博士なりの仮説等を実証したうえで、結論を導き出している。果たして「夏目先生の句は実景であったのか、空想か…」と考察しつつ、「木が高いと仰向けになりやすいが、条件によっては俯きの落下も起こりうる」としたうえで「虻が花の中にいた時に、不意の落下で逃げ出せなかった」との結論を導き出してゆく。
寺田寅彦記念館には数本の椿がある。その一つ「土佐有楽」はピンクの美しい花を咲かせる。概ね1月から3月にかけてのことである。この愛らしい椿は、父・寺田利正によって高知へ運ばれた。この時、利正は熊本鎮台会計部長に転任となり、妻子を高知に残し、単身で赴任する道を選んだ。そのため、利正が家族とともに帰郷したのは明治15年(1882年)1月のことである。すでに買い求めてあった大川筋(現在の小津町)の家に引っ越している。お城にも近く、上士が住んでいたであろう立派な屋敷である。利正は、多芸多趣味で茶の湯や謡曲、生け花等をし、骨董の収集もしていた。また、南国市の広い田畑も購入していたという。この帰郷の折に、「有楽」を持ち帰ったといわれている。
「有楽」の名は、織田信長の弟であり、千利休門下の茶人として名高い織田有楽斎(織田長益)がこの花を好んだことに因んだといわれている。博士は、この大川筋の家で4歳から19歳までを過ごし、熊本五高へ進学した。20歳の時、夏子夫人との結婚披露宴もこの大川筋の大広間で厳かに繰り広げられた。(年齢は数え年)
1913年寺田利正死去、1935年寺田寅彦死去。1945年高知大空襲で勉強部屋以外を焼失。だが、「有楽」は奇跡的に生き残った。そして牧野植物園の開園(1958年)に合わせて寺田邸の「有楽」も挿し木で五台山へ運ばれたという。(花は有楽に似ているが、少し大きいので園芸名「土佐有楽」となった由。)計算すると、140年超の時を刻んでいる。そんな貴重な椿とは…。庭の中央にある「土佐有楽」の中心木。今年は4月10日に最後の花が丸ごと落ちた。虻は来なかったけれど、厳しい冬を温かく包み込みながら季節が移ろってゆく。来年のシーズンには、「土佐有楽」を観賞するためのお客さんが一人でも多くやってくることを今から楽しみにしていこう。